いま集合的無意識を、

この作品が出版されたのは確かちょうど東日本大震災から1年が経った頃で、そのタイミングでこの短篇集が世に出るというのはそれなりの意図があったからだとわかります。それ以前からもよくあるテーマだったのですが、震災以降のSFの視点は素人目に見てもより情報ネットワークを介して繋がる人々に焦点があっているものが多いような気がします。僕は作品は作品それだけで評価したいと考えていますが、この作品のように出版側が意図して見せる背景というのは、作品の要素のひとつに違いありません。それも踏まえた上で、まずは6篇についてそれぞれの感想を。


戦闘妖精・雪風のスピンアウト作品となる短編「ぼくの、マシン」。残念ながら戦闘妖精・雪風はグッドラック、アンブロークンアローを未読です。この短編では、コンピュータがパーソナルなものからパブリックなものになってしまうことに対する不安と恐れが描かれています。すでに現代ではコンピュータはネットワークの端末になりつつあって、スマートフォンなんかはその最たるものでしょう。自分の身の回りにもインターネットに繋がらないパソコンなんてただの箱だと言ってのける人だっています。それほどまでにコンピュータとネットワークは不可分になっていて、神林長平氏はそれについて寂しさを覚えているように思います(氏の作品は2作しか読んだことがないのでなんとも言えませんが、雪風の深井大尉のコンピュータに対する感情は氏のそれの投影に近いと思う。表題作のいま集合的無意識を、を読む限りでも)。
物心ついた時にはインターネットが身近にあった僕のような若い人間には馴染みが薄い感覚かもしれませんが、似たような事例として思い浮かぶのが猫も杓子もクラウド化と謳っている最近の風潮でしょうか。なんか便利そうってのはわかるのですけど、ネットワーク上にあるというふわふわした感じがいまいち信用できなくて、ローカルドライブに信を置いてしまうのです。この例だと、僕もローカルがネットワークに取って替わられる不安を感じます。この不安こそが、この短編の言わんとすることだと思います。


短編「切り落とし」。これはネットワークにおける自己同一性についての話で、本作品は似たようなテーマの短編が多いです。この短編については、純粋にサイバーポリス物として読んだ方が楽しめました。確かに、インターネットをしているとあっちの自分とこっちの自分はどちらが本物なのだろう、なんとなく自分が分裂していくような錯覚を覚えることはあります。


短編「ウィスカー」。人が少年少女の頃は皆テレパスを持つ世界のお話。子どもが人の感情に敏感なのは、きっと純粋にその人を見てるからなのだろうと思う。子どもは人の気持ちがわかって、大人になってゆくと人の考えてることの方がわかっていくようで、それが良いことなのか悪いことなのかは僕にもよくわからない。


短編「自・我・像」。これについては、実際のところよくわかりませんでした。ただ、オチの部分では円城塔氏が好む物語の自己生成オートマトンみたいな雰囲気を感じました。人の集合的無意識が物語を紡ぐとしたら、そんな感じでしょうか。


短編「かくも無数の悲鳴」。多世界解釈上での世界の自己同一性についてユーモアたっぷりに物語にしたお話。乱暴に言ってしまえば、「俺がここに居て、そして生きているってことはこの世界が俺にとっての世界だ!他の世界だとか知ったこっちゃねえ!」というわけで、非常にすっきりとした気持ちになれる短編でした。確かに多世界解釈は面白いしフィクションにするにしても色々考えやすいのだけど、正直なところ頭でっかちな印象を受けるというか、眠たいこと言ってんじゃないよ!と思ってしまうもので…。


そして、表題作の「いま集合的無意識を、」。震災と伊藤計劃を絡めて語るお話。どうも僕はそれほど熱心なSF読者ではないためか、「伊藤計劃とその後」だとか、「伊藤計劃後の想像力」だとか、そういうSF界隈(どちらかというとSFマガジン界隈)の風潮が少し苦手で、えらい大事になってしまっていて伊藤計劃氏も向こうで苦笑いしてるんじゃないかなぁと思うのです。もちろん虐殺器官もハーモニーも傑出した作品ではあると思うのですが、作者の死を以ってして作品に色が与えられてしまっている今の状況を作者は本意に思ったのだろうか、と。
本作も似たような空気が感じられ、伊藤計劃氏の投げかけた鋭い問いかけが、それを問いかけた本人が不在のまま行き場をなくして反響している今の状況に、神林長平氏が自身の中でひとつの区切りをつけようとしている作品のように思われます。人の意識のさらに先にあるものは何なのだろう。今現在において最も集合的無意識に近いインターネットの、さらに無数の人の意識(言葉)が奔流のように流れるツイッターも考察の要素として登場し、さらに問を投げかけるのです。
ツイッターやインターネット掲示板などでは短期間の内に、暴力的なまでの集合的意識が度々発生しては猛威を奮う。それは抑止が効かないどころか自分自身も知らず知らずにその流れに呑まれてしまうことだってあって、そうやっていくうちに確固たる自分が失われていくのに神林長平氏は意見を呈しています。これは虐殺器官やハーモニーで伊藤計劃氏が投げかけたことと非常に類似していて、また、本作に収録されている「ぼくの、マシン」にもその一端が伺えます。驚くべきは、「ぼくの、マシン」の初出が2002年だということ。SF作家はすごい。
この表題作については、とにかくそういう神林長平氏の意見を述べたフィクション風あとがきといった感じでした。


ここまであげた6篇で読み解くこの作品の主題は集合的な意識(現実ではインターネットを介して生じる暴力的な意思)と、その裏にある集合的無意識。そしてここにある自分、自己。きっとこれから加速していくインターネット奔流の流れはどうしようもできないから、自分の意識に立ち返って今一度考えてみるべきだと、そんな作品だったと思います。
自分の中でももやもやしていたハーモニーへの所感にもひとつの決着を与えてくれたし、読んでよかった。でも、震災で確かに人々の意識は変わったはずなんだけど、それが何なのかわかりません。それを見出すのもまた作家の仕事だというようなことを神林長平氏は作中で述べていたので、僕は待つことにします。