ぐいぐいジョーはもういない

人生の中で、女の子が高速スライダーをおもいっきり投げなくちゃならない日は、限られている。
あの八月の決勝の日は、その、数少ない一日であったのだ、と、私たちは後に思った。

女子高校野球が公式種目になっている世界で、ダスティン女学院の大エース・ぐいぐいジョーこと城生羽紅衣と小駒鶫子が織りなす泥臭いように見えてさわやかな、甘酸っぱいように見えて熱くさせるガールズ・ベースボール小説。百合好き界隈で非常に高い評価を受けているようであることから読んでみたのですが、これはもう青春小説ですとてもいいよかったです。
女子野球小説といえば大正野球娘。がありましたが、あちらとはまた趣を異としています。あちらは割りと日常のドタバタを描くような風でしたが、こちらは野球描写にかなり気合が入っています。どれくらいかというと、野球のルールをだいたいわかる程度では野球描写部分の妙を十分に味わい尽くせないのではないか、というぐらいです。高めの釣り球で視線を上げさせるとか、ゾーンの中から外に逃げていくスライダーのすごさとか、そういうのはきっと打席に立ったことのある人じゃないとわからないでしょうから。別に野球やってましたアピールしたいわけではありませんが…。
とまぁ、確かに野球が大部分を占めていてその描写に力が入っているわけですが、言わずもがなメインは羽紅衣と鶫子の気になる関係であります。羽紅衣とバッテリーを組むことになった鶫子は、白球やチョコレートや映画やマフラーやくちびるを通して、文字通り女房役となってゆくのです。僕はキャッチボールをすると気持ちが通じ合うようなお互いの仲が深まっていくような、そんな気持ちになります。それが渾身のストレートやスライダーだったらなおさら、信頼が深まっていくのは想像に難くありません。
そんな二人がどのような道を経て9回裏2アウトのマウンドに至ったのか、その回想を試合の展開と同時に挟んでゆくという形で物語は進行します。それは野球の話だったり、そうでないことだったり。誰かを好きになったとして、いつもいつでもその人のことを考えてその人とのことしか話さないなんてことはないでしょう。でも、そんなないはずのことを羽紅衣はやっている。鶫子が語る過去の話は羽紅衣だけじゃなくその他の部員との話も多く語るのに比べて、少なくとも鶫子の語る物語の中の羽紅衣は自分のことと鶫子のことしか考えてない節があります。これ自分でもよくわからない心境なんですが、だからこそふたりの関係がとても愛おしく思えるのです。
でも、野球はふたりだけじゃできないし、ふたりだけじゃ勝つことはできません。味方チームにも相手チームにも、お互いに今まで積み重ねてきた練習や信頼があって、そういうのがなければ野球である意味はないと僕は思います。エースが打者を全員打ちとって、その女房役が一発打点をあげてそれで勝つ、なんてのは鼻白んでしまいますよね。非力なバッターがどうやって成長するかとか、先輩の主将がどのような気持ちでいたのかとか、ポジション争いで蹴落とされた方はどう這い上がるのかとか、そういうのがないがしろにされていないからこそこの作品は面白いのだと思います。まさに、汗と涙がはじける青春小説。


そういうわけで、別に百合が好きという人でなくても、女の子と女の子の友情以上の関係を少しでも愛でる気持ちを持っている野球好きの人にはぜひともご一読をおすすめします。もちろん、野球好きじゃなくても女の子同士の青春が好きな人も読みましょう。これは百合小説でもあるし、野球小説でもあるし、青春小説でもあるのです。どれかひとつを目的として読んでも、きっと楽しめるはずです。
ただ、読む前にダスティン・ホフマン主演の『卒業』という映画を観ていた方がより楽しめると思われます。作中の人物のモチーフがこの卒業関連だったり、作中でもキーとなる作中作として出てくるので。